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2006/02/01

父逝く

父が逝った。火曜日に病院へ運ばれてからわずか4日、正味2日半の入院で力尽きた。私は通夜、葬儀を終え、明日から仕事に戻る。この1週間は私にとっては人生でもっとも長い濃密な1週間であった。
簡略に経過を述べよう。

先週の月曜日、父は小学校の同窓会旅行に出発した。幹事である。旅先の宿で気分が悪くなり、横になっていたが回復しないので翌日母が迎えに行く。後から聞く話では、昼食時いつもはよく食べる父が、この日に限ってお腹の具合が悪いからと、皆に振る舞うだけだったという。それを補うつもりだったのか、夕食時にはめずらしくよく飲んだらしい。父は下戸だったが酒の席は嫌いでなかった。その後カラオケを2曲歌い、3曲目を歌い始めて苦しくなった。
心筋梗塞が起こっていた。心臓を取り巻く3本の動脈のうち2本の血液が流れなくなっていた。しかし父も母もそれを知るまで事態を深刻に受け止めていなかった。
かかりつけの医院から救急車で日赤に搬送された父の緊急手術中、私は病院に到着した。母と弟から経緯を聞く。手術の同意書にサインを求められた母は、こんな大事なことは家族に相談してからと言ったのだが、そんなことをいっている場合じゃありません、死んじゃいますと言われてサインしたという。
2時間近く待っただろうか、家族控え室に現れた医師は、表情が乏しかった。血管がぼろぼろで血栓を取り除くことができない、現状では施すすべがないというのである。その後CCUの病室に入室を許され、父に会う。酸素マスクを付けられ、苦しそうにしていた。ただ、その晩は医師の言うことがどんなものなのか、父の助かる可能性はないのか調べたかったし、父がすぐに死んでしまうようには思えなかったので帰宅した。
翌日の水曜日は午後から病室に行ってみた。母の話では午前中ご飯も食べさせてもらい、パジャマを着てご機嫌だったという。夕方になって寝ていることがつらくなったのか、体の向きを変えてくれだの、寒いから布団を掛けてくれだの、足をさすってくれだの、注文が多くなった。なにしろ父にとって入院は初めてなのである。何度も父の口元へ耳を持っていって、してほしいことを聞きながら、話すことによってかえって体力を消耗させるのではないかと思った。母と足をさすっていたのだが気に入らず、甘やかしてかえってストレスを増やしているのではと疑った。また弟との仕事のうち合わせは、父の最大の関心事だが、やはり父の負担を増やしているのではと思われた。そこで弟たちと相談の上、あまり話はしないこと、これ以上親族の見舞いを来てくれぬよう要請することにした。それでもこの日父にお休みを言って帰宅するとき、父はベッドの上に左手だけ挙げてバイバイと振ってくれた。
木曜日は朝から病室へ行った。容態が悪化していた。不整脈が現れていたし、脳梗塞も併発してうわごとを言っていたという。ただ、私が見たときはそうでもなかった。おりこうに寝ていてね、あんまりおしゃべりしちゃだめよと励ましながら、父の元を離れ気味でいた。少しでも体力を残しておいてもらいたかった。
しかし不整脈は頻発した。苦しかったことだろう。発作と言っていいのかどうだかわからないが、夜中に父を見に行った際、起きてみえますからお話ししていいですよといわれ、がんばってねと声をかけると、父は「フォルムはうまくいったか?」と聞いた。私は「フォルム」という言葉を聞き取るのに何度も聞き返した。「おまえ、耳悪いな」「ホルム?」首を振るので「フォ?」と一文字ずつ確認して「フォルムはうまくいったか?」だと認識した。とっさに、父が気になっている仕事の話だと思ったので「フォルムはうまくいったよ」と答えた。これが父との最後の会話になった。その後、4時頃にまた不整脈が起こり、次は6時過ぎだった。それが最後だった。
母と下の弟と3人で控え室で泊まっていたのだが、6時半過ぎにそろって見に行った。父がまた不整脈で苦しんでいるところだった。不整脈とは、心臓の収縮が暴走するのである。苦しくて苦しくて、右手がつかまるところを探していた。その父の右手を握った。父は出ない声で悲鳴を上げていた。眉間のしわが苦しさの度合いを物語っていた。目の焦点が合っていなかった。後から聞いた話だが、呼吸が苦しいときは起きあがりたくなるのだそうである。父は理性で抑えていた。起きあがると脳の血管がつまって大変なことになるというのを自覚していた。
祖母の最期の時もそうだったのだが、私は血圧が急低下するような気分に襲われて立っていられなくなった。父の右手を母に替わってもらい、父の足下で座っていた。知らぬ間に父の様子が静かになった。当直医が生命維持装置を付けるか否か聞いたが、その意味がわからなかった。少し後で父の心臓が停止していることを自覚した。「父さんの子供でよかったよ。ありがとう」という私の言葉を、父は血液の送られてこない、しかしまだ死んでいない脳で理解してくれたか。
上の弟が到着したのは、父が事切れてから30分も後。彼とその妻は、父が病床にあっても気にしていた仕事を納期に間に合わすべく、働いていたのだった。
父の亡骸を、稼働中の工場は迎えた。いつものように、仕事をしている我が家へと父は帰った。

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コメント

突然の訃報に心からお悔やみ申し上げます。

大変だったね。親父さんには、1~2度お目にかかった記憶があります。

私の親父はS57年に脳溢血で倒れ、病院に運んで7日目に亡くなりましたが、あの7日間の長さは忘れられません。

<合掌>

大変だったね。
お父様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
まだまだ気持ちは落ち着かないと思いますが、少しずついつもの生活に戻っていってください。

びっくりしました。
私もきっと立っていられないと思います。
のびねこさんの言葉は伝わっていますよ。
身体はただの肉体でしかないと思います。
私は10代の時に母を亡くしていますので、
のびねこさんの悲しみが痛いほどわかります。
名古屋に住んでいる父に、もっともっと
親孝行しなくちゃと思いました。
お父様のご冥福を、心からお祈り致します。

本当に急な事で驚きました。
ちょうど通夜、葬儀の日に名古屋におれず
参列できなくて申し訳なく思ってます。
まだまだ悲しみの最中でしょうが、一日も
早く文姉パワーで復活してください。
本当に、ご冥福をお祈りします。

みなさん、励ましの言葉をありがとう。

>ヒデマオさん
父に会ったことがある? 小学校の頃かしら? そのころなら30代だったはずなので、今の私たちよりずっと若い父を記憶していてくださるのでしょうね。

>イレイチクイーンさん
まだまだ週末の後片付けが続きそうですが、一段落したらまた山に行きましょう。

>コダマさん
10代の頃にお母さんを亡くされたのですか。さぞかし心細かったでしょうね。お父さんにせいぜい親孝行してあげてください。

>高田さん
弟が喪主ですから、なんだかんだ言っても彼がいちばん疲れていると思います。また一緒に飲みましょう(って、3人そろって飲んだことってあったっけ?)

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